アラフォー父ちゃん

仕事、家庭、育児、人生、惑いまくりの名もなき団塊ジュニアのつぶやき

不確実な世の中で成功する秘訣

小さい頃の自分を知ってる人と出会うとどうも勝手が狂う。

昨日15年ぶりに従兄弟にあった。

10歳ぐらい上のそのお兄ちゃんには、従兄弟たちの最年長で、よく肩車をしたりして遊んでくれた。

その後の彼は波瀾万丈だった。

まだ今ほど一般的でなかった80年代、学生時代に駆け落ち同然でできちゃった婚をして親に勘当され、終身雇用がまだ根強かった時代に銀行、風俗店経営、トラック運転手と転々とし、最終的に今はライターとして雑誌に記事を載せたり、いくつか本を出したりしてる。

そんな彼と、僕の結婚式以来の再会を果たした。

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僕だって立派な中年、でも彼にとったらいつまでたっても年下のかわいい従兄弟なようだ。

だからそういう関係のもとで二人で話すと、どうも現在の自分でなくて、当時の自分が見え隠れしてしまう。

内気で大人しく、たいして面白いことも言えない自分が。

久しぶりの出会いと会話はとても楽しかった。でもどこか自分の中で居心地の悪さや、引け目を感じていたのは、きっとそういうことが原因なんだろう。

人の性格は変わるし変えられる。
努力すれば自分が望んだタイプの人間にもなれる。

でも、それでもなお、自分の奥底には愛おしくも嫌いな昔ながらの自分が依然としてデンと構えていることを再認識せざるを得ない、そんなことに気づかされる夜だった。

人は自分が好きと思う性格ばかりで塗り固められるわけでもない。

もう40、まだ40でもある。
劇的に変わることは難しいかもしれない。
でもまだきっと成長できるはずだ。

昨日彼から聞かされた大成の秘密がある。

サッカー日本代表の家族をはじめ有名になった人の家族を何十、何百も取材してきた彼。
もちろん、大成した有名人のいる家族はみな裕福で恵まれているわけでもない。

片親もいれば貧乏もいる。

でもそんな彼らに一つだけ共通しているものがあるらしい。

「どんな時も楽観、ポジティブである」

彼曰く、ポジティブなエネルギーを持つ親の下で育った子供達はたくましくなり、成功しやすい、ということなんだろう。

毎日子育てで悩んでると、子育てに王道も必勝法もないと痛感する。
でも、子供は必ず親の背中は見ている。

確かにクヨクヨしたり、ネガティブだったりする親の背中は見せたくない。

そういえば僕にも拠り所になってる親の考え方があった。

ある事件で停学になった時、意外にも怒られずに投げかけられた言葉、それは「しょうがない」だった。

悪事を否定したわけではない。
言われたことは、「起きたことはしょうがない。その事実を受け止めて考え反省し、次に自分がどう振る舞うかだ。」
だった。

自分にとってのポジティブの礎になっている。

今日も笑顔で家族の顔を見よう。

今日からできる、人間関係をより良くするちょっとしたコツ

締めの文句は「期待してるよ!」らしい。

先日、管理職として、評価者研修を受けた。

もちろん一番の目的は人事評価を如何に適切にするか、ということ。

でも色々教えてもらう中で、評価者である前に、一人の人間として立派に振る舞えること、そして周りの人たちとうまく付き合い導けること、そういった人間性が問われていることがよく分かった。

最近ファシリテーションや対話、コーチングなど、巷でいろんな考え方や理論が出回ってるので、もはや目新しくないかもしれないけど、相手に魅力的に思われる人間になる上でも「使えるのでは?」と思ったので、メモしておきたい。

これをやれば恋愛上手、夫婦円満、親子円満間違いなし?!

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1.良い聴き手
 であれ

やっぱり、人は話を聞いてくれる人に親しみを感じる。
特に女性にとってはそうだろう。

良い聴き手の極意を知った。

・相手の言葉だけでなく表情に気づいている。 
→これって自然に相手の顔や目を見ることになるね。

・相手の言ったことを、その通り繰り返したりしている。 
・相手の話に「なるほど」「そうなのか」と応じ途中で遮らない。 
→間を大事にすることになる。

・相手の言わんとする心情をくみ取り、別の言い方で言い換える。 
→会話にリズムが生まれるし、理解も進む。

・一緒に考えようという姿勢でいる。 
・相手が黙った時に、無理に話さず黙っていられる。 
→相手に親近感を与えられる。

如何にその人に興味を示し、寄り添えるか。
そういえば、夫婦など、関係が近ければ近い人ほど、目を合わせたりせず、その場の会話をなんとなくこなしてる気がする。

意識、テクニック、そぶりだけでもいい。
明日から魅力的なアラフォージェントルマンになれるかも?!

2.褒め上手であれ

人は誰しも褒められたら少しはいい気になるもんだ。
もちろん、考えもせず、言葉を選ばず、褒めても効果が薄いのは気をつけないといけないけど。

今回聞いたのは「サンドイッチ」戦法。

少し嫌なことを言わないといけない時、どう言おうかいつも悩む。
なんか気を遣いすぎて回りくどくなって、かえって気まずくなったり。。

でも、何か改善点や少し耳の痛い提案をしないといけない時、それをサンドイッチの具にすればいいらしい。

褒める→痛いことを言う→褒めて締める。

これで、あなたの周りの人間関係は、明日から劇的に良くなるはず?!

期待してるよ! 

最近つまらない、と思ってる人必見!暗闇で感じる非日常、ダイアログ・イン・ザ・ダーク

「はくじょう」

この読み方すら知らなかった。

目が見えない人が持っている白い杖のこと。

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今日貴重な体験をさせてもらった。
仕事上での参加だから何ともありがたい役得だ。

ダイアログ・イン・ザ・ダーク


完全な暗闇を体験するソーシャルエンターテイメントだ。

相手の顔はもちろんのこと自分の手をどれだけ近づけても見えない、完全な暗闇の中で、みんなで探検したり、遊んだり、話し合ったり。

その場では、暗闇のエキスパート、アテンドと呼ばれる人たちが僕たちをガイドしてくれる。

彼らは全盲者だ。

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中学受験を終えて気づいた、親が守るべき振る舞い

「結局受験ってなんだったんだろうねえ。」

どちらからともなく、また受験の話になった。

受験から解放されて、すっきりしてる娘と異なり、どうも親は二人とも、受験を中心に回っていた日々の生活からのリカバリーがうまく行ってない。

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あれだけの労力を費やした受験が結局何をもたらしたのか、どういう意味があったのかをいまだ互いに自問自答する日々だ。

まあ、受かってくれたわけで、その意味では多いに感謝し喜んでることに間違いはないけれど、あと二人の子供達をどうするのかを考えると、少し考え込んでしまう。

子供にはっぱをかけ、時にはストレスを与えながら、大いなる努力を強いて受験に向かう。そういう子育てが、はたしてベストなんだろうか。

「思えば親、というか、世の大人が子供に期待することって勝手だよねえ。」という話になった。

乳幼児の頃は、人見知りせず明るくニコニコしてて、どちらかというと元気が有り余ってるぐらいの子が望まれる。

それが小学校に入ってからは、毎日忘れ物をせず学校に行き、宿題もすませ、きっちりできる子が急に望まれ始める。

そして受験。
早い人は小学4年ぐらいから、遅くとも高校受験からはみな受験道に入るわけで、そこからは学力、というよりも偏差値がモノを言う世界になる。

そしてようやく辿り着く大学時代。
最近の子達は、僕ら世代よりもずっと真面目に勉強してるとも聞くけれど、本格的に成人としての自由と遊びを楽しみ始める時代だ。

ただそれもつかの間、大学3年にもなるとリクルートスーツに身を包み、就活が始まる。

そこで彼らが求められるものは、元気でも偏差値でもない、人間力だ。

コミュニケーション力、問題発見・課題解決力、論理的思考力、学校や塾では習ってない。。

子供達が年齢とともに求められる価値尺度はこうも違う。
同じ一人の人間、そう簡単に変われるものでもないのに。

真面目だけど社交的じゃない子供がいる、反対にとても明るいけどおっちょこちょいな子供もいる。人当たりが良くて誰からも好かれるけど、頭の回転がそれほど早くない子供もいる。

そんな子供達は、親や世間が期待するその時々の価値尺度の中で、一生懸命毎日を過ごしている。

本当は子供達が経験する受験だって、たまたまその時代の価値尺度に沿った日々を送るという、一つの成長の軌跡に過ぎない。何も人生を左右する、決定的な時代でもない。

受験勉強がピークを迎えると、どうしても合格判定や、偏差値が気になる。

でも、僕らが向き合うべきはそういう数値ではない。受験に奮闘する子供達そのものだ。

少なくとも、親が、受験を迎える子供達以上に、その経過や数値に盛り上がっていていいことは何もない。

その子がその挑戦に何を感じ、どう立ち向かうのか、そしてその経験をどのように受け止めようとしているのか、親の視線の先の中心は、ただの一般的受験生ではなく、オンリーワンの子供達そのものでないといけない。





















これだから家族はやめられない。主役に寄り添う喜びを感じる日。

思わず涙が込み上げてきた。

そういやいつ以来だろう。

感情移入しやすいので、友人の結婚式ですぐもらい泣きしたり、映画に感動することは結構あるけど、我が事で涙が出るのは久しく記憶がない。

厳密に言えば、今回も本当の我が事ではないけど。

試験日から一週間後、やっと結果発表の日がやってきた。
普通の私立だと翌日には結果がわかるけど、公立はばっちり待たされる。

ほんと待ち疲れた。
期待や不安を通り越して、まあ結果はどっちでもいいかと悟りの境地にすら至る。

と頭では考えてたけど、それすら自分に言い聞かせてる言い訳に過ぎなかった。

娘もきっとずっと不安を抱えてたんだろう。
「いよいよ発表だね」とかいう話題も意識的に避けて、とにかく普段通りに過ごしたがっていた。

朝、出勤前に娘の受験票をカメラにおさめた。

そして、運命の10時がやってきた。
恐る恐る学校のホームページを見る。

5桁の数字が並ぶ。

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「あった!」

でも見間違いかもしれないから二度見。

「やっぱりあった!」

ドキドキしながらその時を家で迎えたであろう、妻に電話する。

「見た?」
「あったね。。」

二人ともなんとなく涙声になってた。

娘は最後までがんばった。
毎日コツコツと努力していた。
試験直後、倍率7倍だし、結果はほんとにわからないので、まずは、そのことを褒めた。

でも、やっぱり嬉しい。
何よりも娘の努力が報われたことが。

そして、毎日寄り添って、時には一緒に問題に向き合ってきた妻。
ただでさえ家事、育児に奔走しながら過ごしてるのに、さらにこの1年はずっと娘に伴走してきた。

妻はストレスを抱えると、寝ている間に髪を引っ張って抜くクセがある。
ここ数ヶ月、特に今日を迎えるまでの数日間は特に顕著だった。

そんな妻が電話の向こうで涙声で喜んでいた。

本当に良かった。
今日は名脇役の努力が報われた日でもある。

ありがとう。



受験生の親ってほんとツライ。受験に向かわせたのは自分ですが。

自分以外の人を応援するほど、もどかしいものはない。

ましてやそれが身近で大切な人ならなおさらだ。

そういえば昔、阪神タイガースのあまりの不甲斐なさに苛立ち、挙げ句の果てに「自分の力の及ばないところで一喜一憂することの愚かさ」に気づき、ファンとして応援することから距離をおこうとしたことがあったが、その例えを出すのもはばかられるほどその比じゃない。

今日もふと頭をよぎるたびに、なんか心の奥底で鈍い痛みが疼いた。

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昨日、娘が受検を終えた。
倍率7倍超の一発勝負。

昨日一日のために娘はがんばってきたし、家族も応援してきた。

その結果が出るのは一週間後。。
今の時代、私立なら翌日にでも結果がわかるけど、公立中高一貫の場合はそうはいかない。

実に精神安定上よくない。
そういえば、ここ何十年もドキドキしながら結果を待つというシチュエーションがなかったな、と思いつつようやく一日後を終えた。

「あとは結果論だよ。」
「人事を尽くしたから天命を待つだけ。」
「運とか巡り合わせもある。」
「何より今日まで頑張ってきたことがすごい。」

昨日はいろんな言葉を娘に投げかけたし、昨日ばかりは、思春期を迎え少しずつ微妙な距離になりつつある娘を抱きしめて頭を撫でてやった。

でも本当は親である自分が一番落ち着かないのよ。

公立中高一貫の問題は、いわゆるお受験問題とは異なり、いろんな日々の生活から出てくる問題があるからやっかいだ。

昨日はなんと、リンゴをむいた皮の形を選ぶ問題が出て、娘は間違えていた。。
600点満点で16問くらいしかないのに間違えること、そしてそれがあらかじめわかってしまうことのインパクトは大きい。。

あんまり手伝いをさせてなかったからなあ。。

数ヶ月前、全く料理をしないパパでも、リンゴの皮ぐらい余裕でむけるんだよ、という話で実演したことがあった。

まだ続けられたのに途中でなんとなく切ってしまったことを今更ながら後悔してる。
あの時最後までつなげてむいて、その形を披露でもしていたら、もしかすると娘はその形を覚えてたかもしれないのに。

「世の中に、たら、れば、はない。」
「挫折も糧になる。」

いろんなもっともらしい言葉は浮かぶけど、今はどれも虚しい。
まだ結果は出ていないのに、ふさわしい言葉ばかりを探してしまう。

これからこういう場面、子供にとって重大な局面に対峙する時はいろいろくるんだろう。

どんな結果になっても、それを本人の人生にとって意味あるものとして受け止められるよう、親としてどんな言葉を選び、どんな接し方をしてあげられるのか。

親であることほど修行になることはない。





後藤健二さんの死を無駄にしないために、まず僕らが対峙すべきこと

昨日は世界中で怒りが渦巻いてる気がした。
 
「非難」「憤怒」「抗議」、、各国要人の激しい言葉が紙面を踊っていた。
 
今回の事件は、自分の仕事にも暗い影響を及ぼしかねない大変な事件だ。
 
このまま渦巻く怒りの勢いをかって、日本はどこへ向かうのか、そしてその中でこれまで正しく意味のあることだと思ってきた自分の仕事が、無力になるのか、意味を失うのか、何か得体の知れない不透明感が職場を覆っていた。
 
世界中が負の感情に包まれてる中、自分の仕事になんの意味があるんだろう、どれだけの貢献ができるんだろう、そもそも安全にできるんだろうか、と不安は尽きなかった。
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そんな日の帰り道、見つけたのがこの記事だ。
 
正直、アタマをガツンとやられた、というか、なんとなくクヨクヨ考えていたことが、いかに自分勝手で小さなものかを思い切り突きつけられた感じだった。
 
今回の事件で、イスラム国はどうやっつけられるのか、これから報復合戦が始まるのか、仕事はどうやって安全にできるのか、そもそも日本社会は安全か、と不安なことばかりに気が取られていた。
 
でもこの記事、いやこのジャーナリストは、僕が全く気づいてなかった正しいことを言っていた。
 
「後藤さんが本当に伝えたかったことは何か。」
 
それは戦争で苦しむ女性や子供、弱者の痛みだ。
 
彼は映像で、支配下地域に入る前、自己責任を宣言していた。何が起こっても恨みもしないとも。
 
ナイフを突きつけられて目を閉じた後藤さんが最後に思ったことが何かはわからない。
 
でも、きっと後藤さんが望んだのは、彼の死をきっかけとした新たな憎悪や怒り、争いではないはずだ。
 
彼の死を悼み、無駄にしないためにできること、それは彼が伝えようとした、またそれを通じて願っていた安らかな社会を僕らで少しずつでも作り上げていくことだ。
 
もちろんイスラム国の仕業が許されるものではない。でも、僕ら一人一人にできることは彼らと戦うよりも、その戦いで苦しむ人たちを少しでも救う努力をすることだ。