通勤電車でも心安らかに過ごす方法
いつも通りの朝の通勤電車、いつも通りの停車駅。
でもその日はちょっと違っていた。
電車に乗って二つ目の停車駅に差し掛かる頃、突然静寂を破る嬌声が聞こえてきて、思わず読んでいた新聞から目を離した。
声の主は数十人の小学生たち。
遠足だろうか?それを見た瞬間、「げっ」と思ってしまった。
キャーキャー言いながら、それぞれの入り口から乗ってきた。でも電車が動き出すと、あらかじめ先生に言われたからだろうか、みな神妙にじっと黙ってる。
そんな光景を見て、ふと疑問が湧いてきた。
「さっきの自分の心の揺れ動きはなんだったんだろう。」
最初に訪れた感情は、突然の嬌声に対する「驚き」そして、「不快感」だった。
「不快?!、この俺が?」
子持ちの親だけあって、小さい子供を連れたお母さんなどを電車で見た時など、同情こそすれ、不快感など起こらない、と自認してきたはずだった。
でもそのとき最初に沸いた感情は、確かに不快感だった。
「それは子供に対する不快感だったんだろうか。」
いつもと違うその空間で、邪魔をしないよう一生懸命静かにしている子供達を見ていて、ふと原因が見えてきた。
それは子供達に対する不快感ではない。いつもの落ち着いた電車内の静寂を破られた、という自分の「日常」が不意に奪われた、という不快感だったのだ。
そう考え始めると、とたんに子供達の姿も違って見えてくる。
今、僕が「日常」と考えている同じ空間に、「非日常」を感じながらドキドキしている子供達がいる。
途中駅の乗降客に揉まれて、ひとり友達と離れてしまった子がそばに立っている。
きっとその子は、完全アウェーの中、友達とも離れて心細くなっているかもしれない、みんなが降りる駅で、無事人をかき分けて降りられるだろうか、と不安にかられてるかもしれない。
そう考えていると、そんな子供達に愛おしさすら感じ始めるから不思議だ。
隣には黒のフォーマルな衣装に身を包んだ、穏やかそうな老夫婦がいる。平日だし、もしかすると大事な人の告別式に行くのかもしれない。
リクルートスーツに身を包んだ若者もいる、寝不足の学生も、そして僕に似たサラリーマンも。
人生でたった一度しか会わないかもしれない、ただの同乗者たちにもそれぞれの人生と、その日がある。当たり前だけど。
そんな愛おしき赤の他人のことを考えてると、いつもより心穏やかになれた。
電車に揺られながら、そんなことを原稿にしてたなんて、周りの人たちは知らんだろうなあ。