人間って実は幸せを感じるのが一番下手な生き物
夏、祭りや花火などいろんなイベントがあって楽しい季節。
暑い夏だけど、どこかワクワク感を感じる季節だ。
今朝の新聞のコラムで、「祭りは人間にしかないもの」とあった。
「当たり前でしょ」と思いながらも、人ってこういう非日常感に、トキメキというかなにか期待を感じるよなあ、と同時に思った。
そもそもどうして人はこの「非日常感」に、何か得体の知れない期待感というか高揚感を持ってしまうんだろうか。
答えは簡単に思いつく。
その対極には「日常」があるからだ。
人はなぜかこの「日常」にはトキメキをあまり感じないようにできてるらしい。
むしろ否定的な響きとして捉える時もある。
なんでだろう。
動物はヒトより知能は劣る。
ただ本能のままに生きている。
そこにはどこまで行っても彼らにとっての日常しか存在しない。
ライオンに襲われようが、寒さに凍えようが、飢えに苦しもうが、それが彼らにとっての現実で、それ以上でもそれ以下でもない。
それを喜んだり憂いたりするのではなく、適応するかしないかだ。
敵が来たら逃げる、隠れる。喉が渇いたら水飲み場を探す。餌がなくなればひたすら移動する。
それに比べ人間、僕らはいつからか、現実をありのままで直視することをやめ、今そこにないものに救いや喜びを見出すようになってしまった。
非日常に喜びを感じること、それは日常に満足していない、少なくともどこか不満や我慢があるからなんだろう。
もちろん夢や向上心も、そういった目の前の現実から生まれてくる渇望から出るものかもしれないし、日常に不満や我慢があること自体、否定されるものでもない。
そして日常を感じることで非日常が喜びに変わる、それ自体も嬉しいことだからいいんだろう。
でも、今日思ったことは、人生のほとんどの時間を費やしている「日常」をもっと楽しめた方がよっぽど人生得するかも、ということ。
動物だって、自分の現実を見て「俺もうあかん」、と愚かなことは思わない。
幸せかどうかはわからないけど、少なくとも不幸せとは思ってないはず。
だから日常を楽しもう。
もう一つ思いついたこと。
逆説的だけど、日常を楽しむためには、自分のそれを、非日常と錯覚すればいい。
自分と他人は違う。
自分が他人の境遇をうらやむことがあるのなら、それと同じぐらい他人から羨まれてるかも。
自分の日常は、他人にとっての非日常なのだ。
それか、どれだけ日常を憂いたとしても、昨日と全く同じ日常は訪れない。
日常そのものも毎日少しずつ形を変えている。
そのわずかな変化に気づき、驚き、喜ぶことができるなら、毎日の生活に非日常の喜びを見出せることができるはずだ。