ヒトとして死んでもよいタイミングはいつか
人っていつのタイミングで死んでもいいということになるんだろう。
昨日久しぶりに原爆の平和記念式典を見て戦争のこと、そこで亡くなった人たちのことを思い、そういや最近事件や事故で不慮の死を遂げる人がいるなあ、と考えてるうちにふと疑問が湧いた。
世の中には事件や事故で亡くなる人、苦しくて自ら命を絶つ人は少なくない。
もちろんそういう目にあった人は、悔しさや悲しさを秘めつつ、自分の人生を全うしたという満足感は得られずに亡くなっていったんだろう。
でも自分はどうだろう。
幸い今死にたいほど辛いわけでもないし、これまた幸いに今まで命を自ら断ちたいと思うような局面もなかった。
だからといって何かの拍子で死を迎える時、ラオウのように悔いなし、と満足感を得られてるもんだろうか。
それはいつになったら訪れるんだろうか。
少し感情や哲学的なことから離れてみると、僕らヒトも生き物の一種。
他の生物と同じく、ひたすら子孫を残すことが、遺伝子プログラムに組み込まれてる。
だから個としても、僕らの種が多様で力強く受け継がれるために、強く生き、強い子孫を残すことが求められてる。遺伝子としての話として。
ここまでは他の生物も同じ。
どんなに飢えに苦しもうが、厳しい環境に置かれようが、生物としては、ただひたすらその現実を受け入れ、ただ生に執着し子孫を残す。そこに迷いはない。
でもそれへ人間以外の話。人間はいつからかそこから他の生物とは違うものを持つようになった。
多分生殖活動、あるいは生存を促すために機能していたはずのホルモンを別に解釈するようになって、いつからか「生」以外の作用で快感や喜びを見出せるようになった。
そしてそれは同時に「生」以外の部分で悩みを持つことにも。
だから僕らはシンプルに生きられないのかも。
だってカマキリの雄なんて、雌と交尾した後、その恋人に直後に食い殺される運命にある。
でもきっとカマキリたちはひたすら自分の生殖本能に従い、そして食い殺される運命を受け入れるんだろう。
人間としてはにわかに受け入れられないことだけど、それでも遺伝子的には本来そういうもんなんだろう。
そう考えると、同じ生物である僕らも、最終的には子孫を残すことができたら、種としての役目は全うしたことになるんじゃないだろうか。
もちろん種を残すと言っても、ただ産み落とせばいいということにはならない。
生物によってただ卵を置き去りにし、卵から孵った子供がその瞬間から自分の力で生きて行くことが求められているものもあれば、しばらくは親の母乳なしには生きられない哺乳類もいる。
ヒトなんてその最たるもので、生まれたばかりの赤ん坊はもとより、その子供が自分で生きていく力や術を身につけるまで何年もかかる。
その意味では、今や人間が一番種の保存をしにくい種と言えるかも。
でもとにかく、子孫を残すことができたなら、生物学的には全うしたことになる。
あるいは、もう子供を産まない、または子孫を残す人生の選択をしない、と思った段階でもある意味、種の保存を求められるヒトという生物のいち個体としての役目は終わったということになる。
そう考えると、種の保存を終えた人、あるいは種の保存をすることから卒業した人は、その時点からいつ死んでもいい、全うしたといえるんじゃないかな。
そこからの寿命は長いかもしれない。
でもそこからの人生は全て余生。
自分の楽しみのために使い、あるいは自分が最大限楽しめるために仕事など必要なことをすればいい。
だっていつ死んでもいい身分だから。
そう思ったら死を迎えた時、少しでも満足感に浸ることができるかな。
でもやっぱりどんなにセクシーで愛する相手でも、自分の生殖本能を全うした後、殺されるのは嫌だ。
かわいそうな運命を背負った雄の生物はあまりにも多い。
ヒトの雄はもしかするととても恵まれてるかも。
あくまで生物学的な種としてのお話。