夢と目標が持てない人は幸せか
一年の計は元旦にありというけれど、今年もこれといった目標のない年になりそうだ。
もともと夢や目標がある方ではない。
小学校時代の卒業文集だって、なりたいものがなくて苦し紛れに弁護士と書いた。
当然今はそうなってないし、そもそも大学からして法学部ではない。
去年は一応家族でそれぞれ目標を立てることにして書き初めをしたが、選んだ言葉は「健康」、どうってことない。
しかも、一応年初から早朝ランニングしたが、つまらなくて1ヶ月で挫折した。
それでも2012年の今頃は、目標がないことそのものが、将来進歩していないことと同義ではないかという強迫観念にかられて、いろいろチャレンジし、そのきっかけでこのブログ開設につながったということもある。
ただ、人間不思議なもんで、今は危機感は正直全くない。冷静に考えれば3年前とほとんど状況が変わってないのに。
なんでだろう。
その違いはどこにあるんだろう。
そもそも夢や目標を持つことはどんな意味があるんだろう。
ググってみると、目標は持たない方がいいというのと目標こそが人生を豊かにする、という全く相反する記事が並んでヒットした。
どっちでもいいのかなあ。
ただ、今の心境に照らして一つ心に引っかかったフレーズがある。
目標に向かって努力することは、登山と似たようなもの、ということ。
そこには「達成感を感じるのは頂上に達した時だけ」とどちらかといえば否定的に書かれていた。
目標こそ大事と思ってないという意味では、今はこちらの立場に近い。
ただ、ひとつ異を唱えるとすれば、否定ではなく、山頂という結果だけを追い求めなくてもいい、ということ。
登山の途中で一休みして、そこから見渡せる景色に喜びを見出すかもしれない。あるいは、気が変わって、途中から別の山頂を目指すかもしれない。
要はそのプロセスそのものを楽しみ、またそこに至る軌跡を振り返って喜べばいいんじゃないかなということ。
もちろん壮大な夢や明確な目標を設定して、それに向かって力強く前進することは、あっていいと思う。
でもそれだけじゃないし、長い人生、いろいろある人生、どちらかというとうまくことが運ばない方が多い。
ただ毎日それなりに一生懸命生きてない人はいないわけで、また毎日一瞬たりとも楽しい瞬間を得られず過ごしてる人もそういない。
その意味では、自分が気付いてるか、強く思ってるかに関わらず、誰しも毎日歩を進めてる。
たまに一休みして、自分が来し方を振り返り、今見える光景を噛み締める、そこに少しでも元気や喜びを得られるのなら、それでいいんじゃないかなとも思う。
ちょっとでも今の状況を肯定できる気持ちがあれば、夢や目標そのものがなくても大した問題じゃない。
3年前との違いという意味では、その気持ちぐらいか。