中学受験を終えて気づいた、親が守るべき振る舞い
「結局受験ってなんだったんだろうねえ。」
どちらからともなく、また受験の話になった。
受験から解放されて、すっきりしてる娘と異なり、どうも親は二人とも、受験を中心に回っていた日々の生活からのリカバリーがうまく行ってない。
あれだけの労力を費やした受験が結局何をもたらしたのか、どういう意味があったのかをいまだ互いに自問自答する日々だ。
まあ、受かってくれたわけで、その意味では多いに感謝し喜んでることに間違いはないけれど、あと二人の子供達をどうするのかを考えると、少し考え込んでしまう。
子供にはっぱをかけ、時にはストレスを与えながら、大いなる努力を強いて受験に向かう。そういう子育てが、はたしてベストなんだろうか。
「思えば親、というか、世の大人が子供に期待することって勝手だよねえ。」という話になった。
乳幼児の頃は、人見知りせず明るくニコニコしてて、どちらかというと元気が有り余ってるぐらいの子が望まれる。
それが小学校に入ってからは、毎日忘れ物をせず学校に行き、宿題もすませ、きっちりできる子が急に望まれ始める。
そして受験。
早い人は小学4年ぐらいから、遅くとも高校受験からはみな受験道に入るわけで、そこからは学力、というよりも偏差値がモノを言う世界になる。
そしてようやく辿り着く大学時代。
最近の子達は、僕ら世代よりもずっと真面目に勉強してるとも聞くけれど、本格的に成人としての自由と遊びを楽しみ始める時代だ。
ただそれもつかの間、大学3年にもなるとリクルートスーツに身を包み、就活が始まる。
そこで彼らが求められるものは、元気でも偏差値でもない、人間力だ。
コミュニケーション力、問題発見・課題解決力、論理的思考力、学校や塾では習ってない。。
子供達が年齢とともに求められる価値尺度はこうも違う。
同じ一人の人間、そう簡単に変われるものでもないのに。
真面目だけど社交的じゃない子供がいる、反対にとても明るいけどおっちょこちょいな子供もいる。人当たりが良くて誰からも好かれるけど、頭の回転がそれほど早くない子供もいる。
そんな子供達は、親や世間が期待するその時々の価値尺度の中で、一生懸命毎日を過ごしている。
本当は子供達が経験する受験だって、たまたまその時代の価値尺度に沿った日々を送るという、一つの成長の軌跡に過ぎない。何も人生を左右する、決定的な時代でもない。
受験勉強がピークを迎えると、どうしても合格判定や、偏差値が気になる。
でも、僕らが向き合うべきはそういう数値ではない。受験に奮闘する子供達そのものだ。
少なくとも、親が、受験を迎える子供達以上に、その経過や数値に盛り上がっていていいことは何もない。
その子がその挑戦に何を感じ、どう立ち向かうのか、そしてその経験をどのように受け止めようとしているのか、親の視線の先の中心は、ただの一般的受験生ではなく、オンリーワンの子供達そのものでないといけない。