アラフォー父ちゃん

仕事、家庭、育児、人生、惑いまくりの名もなき団塊ジュニアのつぶやき

中学受験を終えて気づいた、親が守るべき振る舞い

「結局受験ってなんだったんだろうねえ。」

どちらからともなく、また受験の話になった。

受験から解放されて、すっきりしてる娘と異なり、どうも親は二人とも、受験を中心に回っていた日々の生活からのリカバリーがうまく行ってない。

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あれだけの労力を費やした受験が結局何をもたらしたのか、どういう意味があったのかをいまだ互いに自問自答する日々だ。

まあ、受かってくれたわけで、その意味では多いに感謝し喜んでることに間違いはないけれど、あと二人の子供達をどうするのかを考えると、少し考え込んでしまう。

子供にはっぱをかけ、時にはストレスを与えながら、大いなる努力を強いて受験に向かう。そういう子育てが、はたしてベストなんだろうか。

「思えば親、というか、世の大人が子供に期待することって勝手だよねえ。」という話になった。

乳幼児の頃は、人見知りせず明るくニコニコしてて、どちらかというと元気が有り余ってるぐらいの子が望まれる。

それが小学校に入ってからは、毎日忘れ物をせず学校に行き、宿題もすませ、きっちりできる子が急に望まれ始める。

そして受験。
早い人は小学4年ぐらいから、遅くとも高校受験からはみな受験道に入るわけで、そこからは学力、というよりも偏差値がモノを言う世界になる。

そしてようやく辿り着く大学時代。
最近の子達は、僕ら世代よりもずっと真面目に勉強してるとも聞くけれど、本格的に成人としての自由と遊びを楽しみ始める時代だ。

ただそれもつかの間、大学3年にもなるとリクルートスーツに身を包み、就活が始まる。

そこで彼らが求められるものは、元気でも偏差値でもない、人間力だ。

コミュニケーション力、問題発見・課題解決力、論理的思考力、学校や塾では習ってない。。

子供達が年齢とともに求められる価値尺度はこうも違う。
同じ一人の人間、そう簡単に変われるものでもないのに。

真面目だけど社交的じゃない子供がいる、反対にとても明るいけどおっちょこちょいな子供もいる。人当たりが良くて誰からも好かれるけど、頭の回転がそれほど早くない子供もいる。

そんな子供達は、親や世間が期待するその時々の価値尺度の中で、一生懸命毎日を過ごしている。

本当は子供達が経験する受験だって、たまたまその時代の価値尺度に沿った日々を送るという、一つの成長の軌跡に過ぎない。何も人生を左右する、決定的な時代でもない。

受験勉強がピークを迎えると、どうしても合格判定や、偏差値が気になる。

でも、僕らが向き合うべきはそういう数値ではない。受験に奮闘する子供達そのものだ。

少なくとも、親が、受験を迎える子供達以上に、その経過や数値に盛り上がっていていいことは何もない。

その子がその挑戦に何を感じ、どう立ち向かうのか、そしてその経験をどのように受け止めようとしているのか、親の視線の先の中心は、ただの一般的受験生ではなく、オンリーワンの子供達そのものでないといけない。