日本はなぜこんなに不安定な社会になったのか
しばらくミャンマーに来る機会がなさそうなので、ヤンゴンの象徴であるシュエダゴンパゴダにお参りにいった。
暗闇の中でも黄金に輝くそのパゴダは本当に荘厳。
早朝6時に行ったけど、もう大勢の人でにぎわっていた。
もちろん信仰心が厚いというのがあるんだろうけど、それ以上にミャンマー人の生活の一部、「拠り所」になっているような気がする。
人間ってどうしても弱い存在。
苦しみ、悩み、欲望や嫉妬、常にそういった感情に苛まれがち。
だからこそ一人ではいられず、仲間と助け合ったりするもの。
でもそれ以上にやっぱりこういう絶対的な「拠り所」というものがあることが、国や社会、そして人を安定させてくれている気がする。
僕自身、特に信仰心が厚いわけではないけど、ミャンマーの人々を見ているとすごくそのような気がする。
きっとそれは宗教のようなものだけではない。
たとえばタイだと、今でこそ政治でごちゃごちゃしてるけど、やっぱり「国王」のもとでは一致団結するし、そういう国民の共通の「範」というか「基盤」があるように思える。
かたや日本はどうなんだろう。
きっと昔はなんだかんだ言って「天皇」、あるいは「お上」がその拠り所になっていたのかもしれない。
戦後、経済が発展する中では、「カイシャ」というもう少し小さな母体の存在が大きかったのかな。
でも今はその「カイシャ」も拠り所とするにはあまりにも心もとない。しかも「お上」、政府はもっと信頼に足らない。
きっと今の日本ではみんなが絶対的と思えるような共通の拠り所を失ってしまったのかなあ。
最小単位で確固たるものとして残るのは「家族」かもしれない。
僕なんかはそれが確かな拠り所になっている気がするけど、でもそれすらもはや普通じゃない時代になっていて、結婚もしなければ子供も持たない人も増えている。
おひとり様が増えるからこそ、LINEやfacebookでなんとなくつながりを求めたりするのかなあ。
でもそれは拠り所というよりは、寄り合いというもう少し脆弱なものにも思える。
なんか日本って生きにくい国になったなあ。
こういうのを乗り切るにはどうしたらいいんだろう。
たとえ強固な拠り所でなくても、ちょっとした寄り合いを増やせば、social netみたいになるのかも。
同窓、同郷、同僚、同世代、同類、同好、同性、同地域、、、
なんでもいいからそういうタグ付きの寄り合いを、きっとひとりひとりが増やしていければいいんだろな。それもバーチャルだけでなくてリアルで。