アラフォー父ちゃん

仕事、家庭、育児、人生、惑いまくりの名もなき団塊ジュニアのつぶやき

世界中でイジメや負の感情を劇的に減らす魔法の仕掛け

後藤健二さんの奥さんの悲痛なメッセージが全世界を駆け巡った。

最愛の人が人質になり、今にも殺されそうな状況にある。
そしてその極限の状態が世間の目にさらされながら、数日に渡り続く。

そんな境遇にある人の精神的な辛さは、とても想像できるものではない。

もし、自分がそんな境遇にあったら、とふと頭をよぎるだけで、すぐに振り払いたくなるほど忌まわしい出来事だ。

ましてや、目の前には守るべき小さな子供達もいる。

心から無事を、そして家族が再会できることを祈りたい。

そんな世界中の注目を集めるだけに、メディアだけでなく、インターネットの世界でも露出が増えているが、ひとつとても残念なことがある。

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ネット上やSNS上で繰り広げられる、いわれのない誹謗や中傷だ。

当事者たちが死ぬほど辛い目にあって懸命に闘っているというのに、きっと見も知らぬであろう赤の他人が面白おかしく好き放題書いている。

もちろん、自分だって野次馬根性が出たり、ゴシップ記事を見てほくそ笑むこともある。軽い気分で陰口や悪口、噂話に花を咲かせることもある。

だから、自分にできないくせにいたずらに正義感を振りかざす気もないし、そういった自由な言動をシャットアウトすべき、という気もないし、きっとできない。

ただ、そうやってネット上で好き放題悪言を振りまく人たちだって、リアルの世界で普通に生きてるだろうし、誰しもそのターゲットになるのは嫌だろう。

だから、やっぱり少しでもそういう負の連鎖や悪循環が減るに越したことはない。

SNS上でのイジメもそう、もはや万国共通の重い課題だ。

でも、この前、14歳のアメリカ・フロリダ州の少女が、周囲の悲しいイジメの現実を目の当たりにして、一つの仕組みを作った、という記事があった。

それはとてもシンプルながら、絶大な効果を及ぼしたそうだ。

人々が何かネガティブな投稿をしようとする時、実際に送信される前に、「ちょっと待って。本当にそんな侮辱的なコメントをするの?」というメッセージが出るというこの仕掛け、これによりイジメのもとになる発言が70%から約7%へと、実に10分の1にまで減ったらしい!

これは全く個人的な考えだが、ヒトはネガティブな発言をする分、自分の心や気持ちもネガティブになっていくと感じる。

だから、やっぱり誰しもどこかでブレーキがかかる仕組みを自分たちの中にも持っている。

この仕組みはその「思いとどまる」行動を呼び起こし、人々に少しずつポジティブな影響を与えてくれる魔法の仕組みだ。

きっと誹謗中傷はなくならないし、イジメもなくならない。
でも、もしかするとこの仕組みで、その確率や頻度は減らせるかもしれないという希望が湧いてくる。

僕らが、少しずつでも幸せな気分でいられるように、みんなの自由な発言は強制的に止めない代わりに、各種投稿サイトやSNSで、ネガティブな発言を感知し、「ちょっと待て!」とメッセージを発する仕組みが、日本で、そして世界中で義務化されればいいのに、と心底思う。

これだけは忘れたくない。受験生の親が大事にしておくべきこと。

本番まであと2週間を切った。

自分は経験したことがないだけに、12歳の子供が大一番を迎える気持ちがどれほどのものかは実感できない。

ただ、普段はそれほど喜怒哀楽を表に出さない娘にしては、涙したり親に甘えてみたり、弱気な言葉を発したりするあたり、さすがに不安に包まれているのだろう。

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中学受験させること。

これについては、妻と散々議論した。

結局長女は公立の中高一貫だけ受けることにした。
子供にとって良かれと思って、その環境を提示し、路線を敷く。

ただ、親の思惑通り歩んでくれるか、喜んで歩んでくれるかはわからないし、逆に働くこともある。

路線を敷く親の責任も重い。

受験したら、人生にとって何がいいのか。そのために多大な労力を払わせる報いは何なのか。それでもうまくいかなかった時に何を得られるのか。

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忘れられないあの日の出来事から得たもの

今日やったこと。
ここに書くほどでもないどうってことないことばかり。
でも、今日はあえて記録しておきたい。

朝起きて、家族でダラダラと朝ごはんを食べる。

少しは家事の手伝いをしないといけないから、洗濯機をまわし、食器を洗う。

グズグズやってる子供達をけしかけ、勉強机に向かわせる。
たまにわからないところを教えるが、小学生の問題もなかなか骨が折れる。

長女は受験直前。
最近は妻がつきっきりで、過去受けた模試の見直しを一緒にやる。

あまり邪魔をするわけにもいかないから、午後からは、下二人を連れて、ちょっとした動物園もいる少し大きな公園におでかけ。

ただ、寒い。

あの日はどれぐらい寒かったか不思議と記憶にないな。

ブルブル震えながら動物を見る末娘をなだめて、あったかい図書館に行くことにした。

帰り道、妻からのLINEでの指令に基づき食材を買って帰る。

洗濯物を取り込む。
家族そろって夕食を囲む。
あとは風呂に入って眠るんだろう。

このまま何もなければ。

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確か、20年前の昨日もそんなどうってことない日を過ごしてた。

そして迎えたその日。
まだ多くの人が眠りについてる早朝に突然やってきた。

関西では地震が起こらないという思い込みを、その時は誰も疑ってなかった。

20年過ごした愛する神戸が一瞬にして、無残な姿になった。多くの犠牲者を出して。

被害がひどかった長田に住んでいた祖父母を、その日に父親と助けに行った時に車から見た光景が忘れられない。

道路の両脇は燃えさかる家々が立ち並ぶ。
その前に呆然と佇むおばあちゃん。

数キロ先には、大きな煙の柱が、灰色の空に何本も立ち上る。

その後も不自由だった。
幸い電気はついたが、水とガスが出ない。
毎日池までトイレ用の水をくみにいった。

久しぶりに行く地元の小学校が救援物資の配給場所になった。
みんな大学生世代になって疎遠になってたが、小学校に行けば懐かしい顔も見え、無事を喜び合う。

みなここぞとばかり助け合った。
そのなんでもない優しさが嬉しい。
日本人最高。

無事に助け出した祖父母は、長田の家が倒壊して住めないのでしばらくうちの家に居候状態になった。

それだからか、おじいちゃんは日に日に弱り、1年もせず亡くなった。
長年住み慣れた家を失ったショックもきっと大きかったことだろう。

震災は多くの人たちの人生に深い影響を与えた。

今日20年目の節目を迎えた。

無事に生き延び、周りの人と助け合いながら立ち直り、そして今平穏な毎日を送ることができている。

今日はそのことをしみじみと噛み締めて、大切な人たちと一緒に感謝したい。










今だから思う、成人したその日から大事にしておけば良かったと思うこと

「成人の日」って何する日なの?

また子供達は打ち返しにくい剛速球のストレートを投げ込んでくる。

まあ、こんな質問にさらりと深イイ話などできれば、理想の親としてもう少し祭り上げてくれそうなものだが、うちは夫婦二人してしどろもどろ。

「何した?」とお互い質問を投げ合いながら、「なんかどっかのホールに集まって、偉い人の話聞いた」とか「久しぶりにみんな帰ってきて同窓会みたいになった」とか「ママはみんなで振袖着た」とか、、答えることはせいぜいこんなことばかり。きっと本来の目的とはかけ離れてるんだろうとは薄々感じながらも。

まあ、今の時代は容赦ない。

親に聞いても拉致があかないとみたのか、「インターネットで調べて」、とすぐ頼まれる始末で親の威厳も何もない。

というか、親はもう知識で子供から尊敬を勝ち取る時代ではないのかなと思いもしたり。。

さて、その成人の日、調べてみると当然ながらごもっともなことが書いてある。

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「大人になったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝い励ます」

うん、そのとおり。

ただ、二十歳を迎えたばかりの男女、しかも大学時代を謳歌してる多くの若者にはきっと響かないだろうなあ、頭でわかってたとしても心が。

少なくとも自分はそうだった。

でも、ちょうどその倍を生きた今の自分から見ると、そこからの20年はその重みが圧倒的に違うことだけはわかる。
今になって思うと、だが。

だから、今日成人の日を迎えた新しい大人たちへのエールを込めて、少しだけ感じることを伝えておきたい。


成人式を迎えた若者にとっては、生まれてからの20年の歴史はすごく長くそして重みもあるものとして感じてるだろう。

実際に勉強、友人、恋愛で悩んだり楽しんだり、若さゆえのみずみずしい不安定さで毎日を懸命に過ごしてきたとことだろう。

ただ言ってもその20年は、親や先生をはじめとした多くの大人に見守られ、与えて来られた20年にすぎない。

でも、これからの20年は違う。
いよいよ自分の足で、自分の力で歩いていかないといけない時代だ。

どんな選択をしてもいい、どんな人生を送ってもいい。でも良くも悪くも自己責任だ。

そんなことは言われなくてもはわかってるし、自分は最良の人生を送るつもりだ、と言われるかもしれない。

でも一つだけ心に留めておいて欲しいと願うことがある。
あとで後悔しないためにも。

それは「時間の使い方」。

大学を卒業したらみんな仕事を始めるだろう。もしかするとその何年後かには伴侶と一緒に暮らし始めるかもしれない。

でも、そうやって人生のステージを進めば進むほどなくなって行くものがある。

それが自分の時間だ。

もちろん仕事に打ち込めていたらそれはそれで充実した時間だろう。
また、愛する奥さんや子供と過ごす時間ももちろん充実した楽しい時になるだろう。

でも、そうやって一生懸命過ごせば過ごすほど、自分の時間はすり減って行く。

1日を計算してみよう。
まあ普通6時間は眠る。
日本の場合、残念ながらどこも残業があるのが普通だ、だから9時から19時まで働いたとしても10時間は費やす。
まあ、少し少なめに見積もったけど、僕の場合は平均は20時だから、11時間。

もちろん食事や風呂、トイレ、着替えなど、生活に必要なルーティンも合算すれば3時間はかかってしまう。

これだけでもう1日のうちあと4〜5時間しか残ってない。

さらにある。
僕の場合、家が結構遠い。
通勤に往復で2時間ぐらいはかかる。

さあこれで残りはいよいよ2、3時間。

もちろん、平日とはいえ今の世の中家事を奥さん任せにするわけにはいかない。

日本のお父さんが家事に割く平均時間は1時間に満たないと、欧米に比べその少なさが批判されるけど、まあ平日は1時間も家事に割けたら上出来だ、正直なところ。

残りはどれぐらい?

1、2時間。。
疲れて帰ってきて、テレビをつけてリラックスしたら終わってしまうような時間に過ぎない。

男性の親ですらこんなだから、仕事と育児を両立させて頑張ってる世のお母さんたちは、さらに時間との戦いに追われてる。

僕ら日本人の大人は、あまりに自分の持てる時間が少ないのだ。

「そのうち、、」
「時間ができたら、」

そんな言葉の先は一生待ってても来ない。

もちろん毎日ストイックに自分の時間を管理して、常に有意義に過ごせ、と言うつもりもない。
たまには息抜きしたりぼーっとするのも大いにありだと思う。

ただ、これだけは心に留めておいてほしい。

仕事、勉強、恋愛、家族、育児、あるいは趣味や遊び、とにかくなんでもいい。

その時々で自分にとって一番大事な時間は何か、それを常に考えてほしい。
そしてその時間が最大限得られるようにそれを優先した時間割を作って行動することを心がけて欲しい。

次の20年は、これまでの20年と違ってあまりにも早く過ぎるものだから。

そして、たまに無駄に過ごしたとしても、それはそれでいいじゃないか、と思って欲しい。

悲しんでも嘆いても時間はかえってこないし。

歩んできたその時間そのものも、今の自分を形作る素敵な軌跡だ。

自分の使った時間には、大いに誇りを持って欲しい。

素敵な毎日を送ってください。

人に力を与え導く秘訣はどこにあるのか

久しぶりに胸をうつ言葉を見た。 

今日から子供たちは3学期が始まる。 
特に4年生の息子は、今年大当たり。 

評判の担任にあたったおかげで、クラス全体が活気付き、またクラスを「家族」に例えるほどみなが仲良くなり、そして先生を慕う状況が生まれている。 

そんな中、微妙な年ごろの入口に立ちつつある息子もおかげで毎日活き活きと過ごし、意外な個性も発揮し始めている。 

始業式の直前の準備で、カバンから出てきたのが、4月以来130号を数える毎回担任の先生が送ってくれる通信。 

2学期最後の通信が埋もれていたのを今頃出してきたものだが、そこには2学期を振り返ったクラス全員のコメントが数枚にわたってまとめられていた。 

①2学期の思い出、②クラスメイトへのメッセージ、そして③担任へのメッセージだ。 

今年のクラスの良い環境を象徴するような内容が子供たちの発するメッセージにほとばしっていたが、とりわけ目を引いたのがある子が担任にあてた言葉だ。 

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「おこらないでいてくれてありがとう。今まで先生はおこると思っていた。」 

近年、発達障害という言葉が一般的になってから、どの学年・どのクラスにもそういうように言われる子供たちがいる時代になったが、聞くとこの発言の主は、毎日親が付き添わないといけないほどの生徒さんらしい。 

詳細は知らないが、なかなか他の友達とうまく接することができなかったり、学習が追い付かなかったり、いろいろ先生に迷惑をかけることが多かったんだろう。 
きっと、本人は悪気もないし、一生懸命やってはいたんだろうけど。 

そういう何とも言えない残念だけどしょうがない感じはすごくわかる。普通の人からすれば。 

でもそれがこの言葉だ。 
きっと、その子にとってもこの1年の担任の存在はとても大きかったんだろう。 

思わずその子の気持ち、親の気持ちなどに思いが至り目頭が熱くなってしまった。 

この言葉から、なぜこの担任がこれほどまでに生徒から慕われているのか(しかも今年の息子のクラスだけでなく、代々そうだと聞く)、その一端を見た気がする。 

「受容される」 
「認められる」 
「褒められる」 

クラスの父親的存在のその担任が、一人一人に対して愛情をもって接し、そしてその個性を尊重してくれているんだろう。 

教育、子育て、人間性、全てに通じる大切なものを改めて気づかせてくれた。 

人に力を与え導く秘訣はどこにあるのか

久しぶりに胸をうつ言葉を見た。 

今日から子供たちは3学期が始まる。 
特に4年生の息子は、今年大当たり。 

評判の担任にあたったおかげで、クラス全体が活気付き、またクラスを「家族」に例えるほどみなが仲良くなり、そして先生を慕う状況が生まれている。 
そんな中、微妙な年ごろの入口に立ちつつある息子もおかげで毎日活き活きと過ごし、意外な個性も発揮し始めている。 

始業式の直前の準備で、カバンから出てきたのが、4月以来130号を数える毎回担任の先生が送ってくれる通信。 
2学期最後の通信が埋もれていたのを今頃出してきたものだが、そこには2学期を振り返ったクラス全員のコメントが数枚にわたってまとめられていた。 

①2学期の思い出、②クラスメイトへのメッセージ、そして③担任へのメッセージだ。 

今年のクラスの良い環境を象徴するような内容が子供たちの発するメッセージにほとばしっていたが、とりわけ目を引いたのがある子が担任にあてた言葉だ。 

「おこらないでいてくれてありがとう。今まで先生はおこると思っていた。」 

近年、発達障害という言葉が一般的になってから、どの学年・どのクラスにもそういうように言われる子供たちがいる時代になったが、聞くとこの発言の主は、毎日親が付き添わないといけないほどの生徒さんらしい。 

詳細は知らないが、なかなか他の友達とうまく接することができなかったり、学習が追い付かなかったり、いろいろ先生に迷惑をかけることが多かったんだろう。 
きっと、本人は悪気もないし、一生懸命やってはいたんだろうけど。 

そういう何とも言えない残念だけどしょうがない感じはすごくわかる。普通の人からすれば。 

でもそれがこの言葉だ。 
きっと、その子にとってもこの1年の担任の存在はとても大きかったんだろう。 

思わずその子の気持ち、親の気持ちなどに思いが至り目頭が熱くなってしまった。 

この言葉から、なぜこの担任がこれほどまでに生徒から慕われているのか(しかも今年の息子のクラスだけでなく、代々そうだと聞く)、その一端を見た気がする。 

「受容される」 
「認められる」 
「褒められる」 

クラスの父親的存在のその担任が、一人一人に対して愛情をもって接し、そしてその個性を尊重してくれているんだろう。 

教育、子育て、人間性、全てに通じる大切なものを改めて気づかせてくれた。 

夢と目標が持てない人は幸せか

一年の計は元旦にありというけれど、今年もこれといった目標のない年になりそうだ。

もともと夢や目標がある方ではない。

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小学校時代の卒業文集だって、なりたいものがなくて苦し紛れに弁護士と書いた。
当然今はそうなってないし、そもそも大学からして法学部ではない。

去年は一応家族でそれぞれ目標を立てることにして書き初めをしたが、選んだ言葉は「健康」、どうってことない。
しかも、一応年初から早朝ランニングしたが、つまらなくて1ヶ月で挫折した。

それでも2012年の今頃は、目標がないことそのものが、将来進歩していないことと同義ではないかという強迫観念にかられて、いろいろチャレンジし、そのきっかけでこのブログ開設につながったということもある。

ただ、人間不思議なもんで、今は危機感は正直全くない。冷静に考えれば3年前とほとんど状況が変わってないのに。

なんでだろう。
その違いはどこにあるんだろう。

そもそも夢や目標を持つことはどんな意味があるんだろう。

ググってみると、目標は持たない方がいいというのと目標こそが人生を豊かにする、という全く相反する記事が並んでヒットした。

どっちでもいいのかなあ。

ただ、今の心境に照らして一つ心に引っかかったフレーズがある。

目標に向かって努力することは、登山と似たようなもの、ということ。

そこには「達成感を感じるのは頂上に達した時だけ」とどちらかといえば否定的に書かれていた。

目標こそ大事と思ってないという意味では、今はこちらの立場に近い。

ただ、ひとつ異を唱えるとすれば、否定ではなく、山頂という結果だけを追い求めなくてもいい、ということ。

登山の途中で一休みして、そこから見渡せる景色に喜びを見出すかもしれない。あるいは、気が変わって、途中から別の山頂を目指すかもしれない。

要はそのプロセスそのものを楽しみ、またそこに至る軌跡を振り返って喜べばいいんじゃないかなということ。

もちろん壮大な夢や明確な目標を設定して、それに向かって力強く前進することは、あっていいと思う。

でもそれだけじゃないし、長い人生、いろいろある人生、どちらかというとうまくことが運ばない方が多い。

ただ毎日それなりに一生懸命生きてない人はいないわけで、また毎日一瞬たりとも楽しい瞬間を得られず過ごしてる人もそういない。

その意味では、自分が気付いてるか、強く思ってるかに関わらず、誰しも毎日歩を進めてる。

たまに一休みして、自分が来し方を振り返り、今見える光景を噛み締める、そこに少しでも元気や喜びを得られるのなら、それでいいんじゃないかなとも思う。

ちょっとでも今の状況を肯定できる気持ちがあれば、夢や目標そのものがなくても大した問題じゃない。

3年前との違いという意味では、その気持ちぐらいか。