日本って実は尊厳死大国だった?!
「えっ?!そんなん、日本ちょっと前まで普通やったやん。」
おかしなことを言うことが多い妻だけど、たまにハッとさせられることがある。
最近世界中で議論を巻き起こしてる、尊厳死の問題。
たまたま新聞の記事にもなってたので、何気なく話題をふる。
絶対的な答えのないテーマだけど、なんとなく妻はどう思ってるのか聞いてみたくなったのだ。
すると冒頭の切り返し。
時事問題に疎い妻だけに、新鮮な切り替えしというべきか。。
「だって会津の松平家だって、新政府軍にやられていっぱい切腹したし。」と、去年の大河ドラマを引き合いに主張し始める。
うーん、違うような、でも違うと言い切れないような。
そうねえ、そう言われると日本はハラキリ文化で、もちろん罰として切腹を命じられたりもするけど、戦争の時なんかはどっちかというと名誉を守る切腹であったりもする。
よく考えると天皇万歳とかいって、自ら命を落とす人たちがたくさんいたのは第二次世界大戦、まだ僕らのおばあちゃんの時代で最近のことだ。
その時代、その時々の考えに照らすと、日本国民としての尊厳を守る尊い死、ある種の尊厳死といえるのかな?
もちろんハラキリが良いという気は毛頭ない。
でも、意外にも日本は少し前まで尊厳という言葉を持って死を選ぶことが許容される文化だったという事実に改めて気づく。
それがいつの間にか日本も尊厳死がタブー視されるようになった。
いつから変わったのか。
そんなことを真面目に考えたこともなかったけど、気になって調べ始めた。
そう、第二次世界大戦以降変わったもの、それは憲法。
そこには基本的人権という考えがある。
なつかしい、社会で習った。
基本的人権、あるいは今自分がいる業界用語でいうと、人間の安全保障にある程度近い概念か。
つまり「人間が人間らしく生きる権利」。
初めて知ったけど、日本国憲法には基本的人権を規定した条文が第10条から第40条に至るまで細々と規定されてるらしい。
学生時代なら、テストに出ると言われたらがんばって覚えてたかも。
でもこうやって、へ~っという感じで腹の底から理解するのは、僕は恥ずかしながら40歳になって初めてだ。
そこで書かれてることは、「差別されない」、「自由に生きる」、「人間らしい最低限の生活ができるよう国が保障する」、「きちんとこの権利が守られるよう国にお願いできる」、「政治に参加する」という5種類に分けられるらしい。
そうか、僕らは国に守られてるんだ。
さて、ここからが本題。
憲法では、基本的に生きたい人を守ることが書かれてる。
でも死にたい人に死んではいけないとは書いてない。
「人間らしく」「生きる」権利。
でも人間らしくできない時、僕らはどうすればいいんだろう。
余命数ヶ月の病気で苦しむ人、不慮の事故で寝たきりになった人、老いて人工呼吸なしには生きられない人、自分だってそんなときは訪れるかもしれない。
自分がそういう状態になったら、自分が肉体的にとてつもなく苦しい状態になったら、あるいはもう二度と目を開けられない植物状態になったら。。
もちろん、本人を大切に思う周りの人たちが、少しでも生きて欲しいと願う時もあるだろう。
だから、全て自分勝手に決められるようなことでもないこともわかる。
でも自分なら、、自分自身、そして大切な周りの人たちがこれ以上苦しまないためにも、安らかな死を選ぶかもしれない。
その方が自分の尊厳を少しでも維持して自分の生を全うできるかもしれないから。
もうひとつ、いろいろ調べてたら今回の尊厳死騒動に関連して、毎日人の生死に向き合ってる医療従事者たちの心を揺さぶるコメントをまとめた記事を見た。
尊厳死について…多くの死を見てきた医療従事者たちのコメントが心を打つと反響:らばQ
正直これまでは、まあ人それぞれだしどっちでもいいかなと思ってた。
でもこの記事を見て、だんだんと自分の中で強く思い始める気持ちが芽生えた。
「もし必要な局面になったら自分の生涯は自分の意志で閉じたい。」
そして尊厳死を認めるべき、とか言い出すと世間的にも道徳的にもいろんな意見や反論やらがあって答えは出ないことも重々承知してる。
でもやっぱり本人がどれだけ苦しんでてもそれを本人が決断できないこと、それは尊厳とは言えない、と今は思う。
例えば、何かあったら自分の臓器を提供するドナー登録のように、何かあったら自分は延命措置を望まないリビングウィル、これがもっとメジャーになって、そしてもう少し条件の幅が広がればと願わずにはいられない。
「切腹とか当たり前やったやん、と尊厳死の何が悪い」、と主張する妻に聞いた。
「じゃあ、俺が植物状態になって、あらかじめ延命しないでと宣言してたらどうする?」
「延命させる。」
話が違うやん!と突っ込みたくなる。
でもその気持ちもとてもわかるし、怒る気にもなれない。
逆の立場ならそうするかもしれないし。
それでもいい、実際は。
でもせめて、、大切な人との間で、どちらがベストかを自らが望む方法を選ぶ選択肢が許されること、それはあってほしいと思う。