成功者の条件の「良心的な人」のなり方を教えてくれないので、自分なりに考えてみた
今朝見た記事「確実に成功者になれる性格、それは「良心的であること」だった」。
良心的な人は、まめで責任感が強く計画的、自己管理能力や根気強さもある。
だから、学生生活でも社会人になってからもうまくいく、という話らしい。
もっともらしいし、反論もしようがない。
でもそもそもそんなスーパーマンな「良心的な人」ってどうやってなったらいいのか。。
子供に良心的な人になれ、と言っても途方に暮れるだけだろうから、そもそもどういうことなのか自分なりに考えてみた。
そもそも「良心」ってなんだろう。
googleで検索してみると、最もそれらしい表現として、孟子のことば「人間に固有の善心」が出てきた。
「善心」?
さらに調べると、「人の道にかなったよい心」とある。
おっと、今度は「人の道」が出てきたよ。
これまた調べると、荀子いわく「人の道」とは「他人の不幸をわがことのように感じて見過ごせない気持ち」とある。
これを惻隠の情というらしい。
そうか、良心的な人になるためには、人の痛みがわかること、らしい。
誰か困ってたり、悲しんでいる人がいたら、その人の気持ちになって考えられる人、ということなのね。
慈悲の心とも言える。
でも、孟子やら荀子やら、ちょっと思想として偏ってたらいけないので、西洋にも目を向けてみた。
英語で「良心」を検索すると、とりあえず出てくるのが「conscience(コンシャンス)」。
逆に引くと、「自分がしていることの善悪を区別する心の動き」とある。
しかもこの前に「good」とか「evil」とかつくようで、conscience自体にいわゆる「良」心がくっついているわけではないようだ。
おもしろくなって語源も見てみると、さらにおもしろいことがわかってきた。
このconscienceという意味、「共に知ること」という意味らしい。
この「共に」がミソ。
これは他者、神、自己を意味するみたい。
でたよ「神」。
結局ここでも宗教的なところが顔を出す。
さらに宗教的な側面から見てみると、聖書でいうところの「良心」とは、「神が与え、神によって定められた倫理的規範」らしい。
そうなんだ、倫理的規範は、ヒトが信ずるところの神によって与えられるものらしい。だからヒトによって決められるものではない。
そう考えると、この「良心」、かなり曲者。
自分が思っている「良心」は、他人が思う「良心」とは違うかもしれない。
世界中がみな同じ神を信じて、それに与えられたものとして「良心」ととらえるなら、同じ目線になる可能性はまだあるかもしれないけど。
「良心的な人になれ」、これってわかるようで実は千差万別ということなんだろう。
ということで自分なりにわかったこと。
「良心的」というのは、自分なりにこうだと思える心であればいいんじゃないかな。
とりあえず僕なりの「良心」、それは「人の痛みがわかること」かな。
それなら子供にも教えやすいし、自分も気を付けやすい。
良心的な人は、まめで責任感が強く計画的、自己管理能力や根気強さもある。
だから、学生生活でも社会人になってからもうまくいく、という話らしい。
もっともらしいし、反論もしようがない。
でもそもそもそんなスーパーマンな「良心的な人」ってどうやってなったらいいのか。。
子供に良心的な人になれ、と言っても途方に暮れるだけだろうから、そもそもどういうことなのか自分なりに考えてみた。
そもそも「良心」ってなんだろう。
googleで検索してみると、最もそれらしい表現として、孟子のことば「人間に固有の善心」が出てきた。
「善心」?
さらに調べると、「人の道にかなったよい心」とある。
おっと、今度は「人の道」が出てきたよ。
これまた調べると、荀子いわく「人の道」とは「他人の不幸をわがことのように感じて見過ごせない気持ち」とある。
これを惻隠の情というらしい。
そうか、良心的な人になるためには、人の痛みがわかること、らしい。
誰か困ってたり、悲しんでいる人がいたら、その人の気持ちになって考えられる人、ということなのね。
慈悲の心とも言える。
でも、孟子やら荀子やら、ちょっと思想として偏ってたらいけないので、西洋にも目を向けてみた。
英語で「良心」を検索すると、とりあえず出てくるのが「conscience(コンシャンス)」。
逆に引くと、「自分がしていることの善悪を区別する心の動き」とある。
しかもこの前に「good」とか「evil」とかつくようで、conscience自体にいわゆる「良」心がくっついているわけではないようだ。
おもしろくなって語源も見てみると、さらにおもしろいことがわかってきた。
このconscienceという意味、「共に知ること」という意味らしい。
この「共に」がミソ。
これは他者、神、自己を意味するみたい。
でたよ「神」。
結局ここでも宗教的なところが顔を出す。
さらに宗教的な側面から見てみると、聖書でいうところの「良心」とは、「神が与え、神によって定められた倫理的規範」らしい。
そうなんだ、倫理的規範は、ヒトが信ずるところの神によって与えられるものらしい。だからヒトによって決められるものではない。
そう考えると、この「良心」、かなり曲者。
自分が思っている「良心」は、他人が思う「良心」とは違うかもしれない。
世界中がみな同じ神を信じて、それに与えられたものとして「良心」ととらえるなら、同じ目線になる可能性はまだあるかもしれないけど。
「良心的な人になれ」、これってわかるようで実は千差万別ということなんだろう。
ということで自分なりにわかったこと。
「良心的」というのは、自分なりにこうだと思える心であればいいんじゃないかな。
とりあえず僕なりの「良心」、それは「人の痛みがわかること」かな。
それなら子供にも教えやすいし、自分も気を付けやすい。