アラフォー父ちゃん

仕事、家庭、育児、人生、惑いまくりの名もなき団塊ジュニアのつぶやき

人間はなぜ弱者を抹殺しないのか、という質問への回答が秀逸すぎる。

たまたまFacebookで出回っていた記事。

Yahoo!知恵袋での回答が素晴らしすぎるという話だった。

 

 

なんとなく読んでみたけどうーん、ってうならされるほど奥が深くて面白かった。

弱者を抹殺する。 不謹慎な質問ですが、疑問に思ったのでお答え頂ければと思い... - Yahoo!知恵袋

 

「弱肉強食」の自然界でなぜ人間は「弱者を抹殺しないのか」という質問だけど、その答えがこちら。

 

あまりに面白い見方だったので、引用させていただきます。

え~っと、、、よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません

弱いからといって喰われるとは限らないし、強いからといって食えるとも限りません

虎は兎より掛け値なしに強いですが、兎は世界中で繁栄し、虎は絶滅の危機に瀕しています

***

自然界の掟は、個体レベルでは「全肉全食」で、種レベルでは「適者生存」です

個体レベルでは、最終的に全ての個体が「喰われ」ます
全ての個体は、多少の寿命の差こそあれ、必ず死にます
個体間の寿命の違いは、自然界全体で観れば意味はありません
ある犬が2年生き、別の犬が10年生きたとしても、それはほとんど大した違いは無く、どっちでもいいことです

種レベルでは「適者生存」です
この言葉は誤解されて広まってますが、決して「弱肉強食」の意味ではありません
「強い者」が残るのではなく、「適した者」が残るんです
(「残る」という意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味であることに注意)


そして自然というものの特徴は、「無限と言っていいほどの環境適応のやり方がある」ということです

必ずしも活発なものが残るとは限らず、ナマケモノや深海生物のように極端に代謝を落とした生存戦略もあります
多産なもの少産なもの、速いもの遅いもの、強いもの弱いもの、大きいもの小さいもの、、、、
あらゆる形態の生物が存在することは御存じの通り

「適応」してさえいれば、強かろうが弱かろうが関係無いんです

そして「適者生存」の意味が、「個体が生き延びる」という意味で無く「遺伝子が次世代に受け継がれる」の意味である以上、ある特定の個体が外敵に喰われようがどうしようが関係ないんです

10年生き延びて子を1匹しか生まなかった個体と、1年しか生きられなかったが子を10匹生んだ個体とでは、後者の方がより「適者」として「生存」したことになります


「生存」が「子孫を残すこと」であり、「適応」の仕方が無数に可能性のあるものである以上、どのように「適応」するかはその生物の生存戦略次第ということになります

人間の生存戦略は、、、、「社会性」

高度に機能的な社会を作り、その互助作用でもって個体を保護する
個別的には長期の生存が不可能な個体(=つまり、質問主さんがおっしゃる"弱者"です)も生き延びさせることで、子孫の繁栄の可能性を最大化する、、、、という戦略です

どれだけの個体が生き延びられるか、どの程度の"弱者"を生かすことが出来るかは、その社会の持つ力に比例します
人類は文明を発展させることで、前時代では生かすことが出来なかった個体も生かすことができるようになりました

生物の生存戦略としては大成功でしょう
(生物が子孫を増やすのは本源的なものであり、そのこと自体の価値を問うてもそれは無意味です。「こんなに数を増やす必要があるのか?」という疑問は、自然界に立脚して論ずる限り意味を成しません)

「優秀な遺伝子」ってものは無いんですよ
あるのは「ある特定の環境において、有効であるかもしれない遺伝子」です

遺伝子によって発現されるどういう"形質"が、どういう環境で生存に有利に働くかは計算不可能です
例えば、現代社会の人類にとって「障害」としかみなされない形質も、将来は「有効な形質」になってるかもしれません
だから、可能であるならばできる限り多くのパターンの「障害(=つまるところ形質的イレギュラーですが)」を抱えておく方が、生存戦略上の「保険」となるんです

(「生まれつき目が見えないことが、どういう状況で有利になるのか?」という質問をしないでくださいね。それこそ誰にも読めないことなんです。自然とは、無数の可能性の塊であって、全てを計算しきるのは神ならぬ人間には不可能ですから)


アマゾンのジャングルに一人で放置されて生き延びられる現代人はいませんね
ということは、「社会」というものが無い生の自然状態に置かれるなら、人間は全員「弱者」だということです

その「弱者」たちが集まって、出来るだけ多くの「弱者」を生かすようにしたのが人間の生存戦略なんです

だから社会科学では、「闘争」も「協働」も人間社会の構成要素だが、どちらがより「人間社会」の本質かといえば「協働」である、と答えるんです
「闘争」がどれほど活発化しようが、最後は「協働」しないと人間は生き延びられないからです


我々全員が「弱者」であり、「弱者」を生かすのがホモ・サピエンス生存戦略だということです

 

そうなのよねえ、人間って「個」としたらもっとも弱い生物かも。

他の生物にはないほど大きな脳を進化させた代わりに、生まれた瞬間の赤ん坊は本当になにもできない。

 

でも長い人間の進化の歩みの中で、それが一番自然界に適応した形なんだろう。

 

種としての「人間」の戦略性は社会性。

よくわかります。

 

僕らの意識にはない遺伝子の世界で、僕らはオキシトシンというホルモンをもっている。

お母さんが赤ん坊を産むとき、母乳を与える時にでるというそれ。

あるいは愛しい人と触れ合ったりするときにも出るそのホルモン。

これが身近な人、他者への愛情を生み出し、「助け合って生きる」源のひとつとなっている。

 

僕らはそうやって自然界で生き残るすべを身に着けてきたんだ。

 

でもその一方で質問者さんの疑問もわかる気がしてきた。

 

そんな人類なのに、いがみ合ったり殺し合ったり戦争したりする。

同じ種を殺すことができる。

 

でも正直これも、僕らの意識にはない遺伝子レベルで植え付けられた「種の保存活動」なのかも。

 

調べてみると、同じ種でも共食いをする生物は1,500種をくだらないそうだ。

種の保存のため、交尾をした後の雌グモが雄グモを食べる。

ハムスターだって子供通しが栄養を求めて殺さないよう、子供を食べてしまうこともあるそうだ。

 

「愛情ホルモン」のオキシトシン、ある研究結果では逆にむごい結果をもたらすこともあるらしい。

もちろん実際に実験をしたわけではないけれど、たとえば「座礁した船から逃げる時に6人いるなかで5人しか救命ボートに乗れない」といった究極の選択をさせたら、たとえばオランダ人は肌の色の違う人や別の国の人に見える名前の人よりも、オランダ人に近い人を救う選択をするらしい。

 

これって、オキシトシンの発生する身近な人ほど守りたい、助けたいというのと無縁ではないということらしい。

 

サル同士だって、群れ対群れで戦う。

 

身近な人と助け合い種の保存を全うしたい。でも、同じ種でも遠い存在になればその気持ちは薄れる。

全ては僕たちに植え付けられた種の保存がなすわざのようだ。

 

僕らが頭で考えてる悩みや苦しみがあっても、結局は遺伝子に守られ、コントロールされて生きてるんだねえ。