大きい子向け子育て本が少なすぎて困るんですけど。
先の見えないこの不確実な現代、多くの親が自分たちの子供に願うであろうことがある。
どんな世の中でも自分の足でしっかりと立って生き抜いていけるたくましい人に育って欲しい、ということ。
まあ、たくましい、とまで願うかはともかく、一生懸命褒めたり叱ったりしながら、予算のある限り子供の将来のため投資をするのは、それもこれも子供には立派に大人になって巣立って行ってほしいから。
ただ、子育てが始まってから10年以上になってくると、親の限界というか、高まる一方の子育ての難しさに途方に暮れる時がある。
以前の記事にも書いたことがあるけど、子育ての極意として、美智子皇后が素晴らしい言葉を残されてる。
「幸せな子」を育てるのではなく、どんな境遇に置かれても「幸せになれる子」を育てたい。
本当にそうだと思う。
この言葉を聞くだけで、美智子皇后の親としての愛情も感じられて、心が温かくなれる。
ただ難しいのは、それをどうやって実現するかがわからないことなのよねえ。
もちろん、自分なりに心がけてることはある。
自己肯定感を持ってもらうこと、そのために褒めて育てること。
子供が小さい頃はまだ簡単だった。
おしっこを教えてくれた。
ボタンをはめられた。
絵が上手にかけた。
一人でご飯を食べられた。
親と離れて幼稚園にいられた。
お遊戯が上手にできた。
ひらがなが書けた。
それまでできなかったことがどんどんできるようになる。
親バカとしては、その一つ一つが嬉しくて、手放しで喜び、子供を褒める。
子供も親に褒められて、とても嬉しそうな顔をする。
ここまでは良いのよ。
でも問題は学校に上がってから。
それまでの親子主体の世界とは異なり、子供達同士の社会や先生との関係が始まる。
友達と楽しく過ごしながらも、子供社会の中で、懸命に自分のアイデンティティを確立しようとしてる。
きっと彼らの頭の中では、自分より頭がいいとか、運動ができるとか、頼られるとか、おもしろいとか、友達関係の中での立ち位置も薄々感じ始めるだろう。自分の長所や短所とともに。それが大人ほど明確なものではなくても。
そして、それはなかなか親には見えない。
だから、これまでの「褒める」戦法はなかなか通じなくなってきて困る。
よく走ったね。
いい点とったね。
みんなの前で発表して格好良かったね。
毎日宿題がんばったね。
そんな褒め言葉をなげかけても、前ほどには返ってこない。
ていうかむしろウザがられる。
そりゃそうだろう、自分も昔はそうだった。
人間、褒められて基本悪い気はしないし、マズローの法則のように、きっと承認欲求はあるから、どこか心の底で褒められたい、認められたい、という気持ちはあるはず。
ただ、実際に褒められた時、小さい頃の純粋な喜びはなく、どこか気恥ずかしいというか、後ろめたい気持ちが残る。
「そうやって褒めてくれるけど、自分はそれほどでも、、もっとすごい人いるし」「無理して褒めてるんちゃう?」みたいな複雑な感情が芽生える。(僕の性格と、その遺伝子を受け継いだうちの子供だけかもしれないけど)
ある人は成果を褒めろという、またある人はプロセスを褒めろという。
でも、どっちも同じ。
相手が素直に受け取ってくれなければ。
世の中にはこんなに育児本が溢れてるのに、どうして大きな子になってくると、育児本ではなくて、受験本ばかりになるんだろう。
教育や受験だけが育児じゃないし、学校にまかせてたらいい、というもんでもない。
むしろ大きくなってからの方が子育ての悩みや迷いは深まる一方なのに。
でも一つだけ思うことがある。
それは子供との距離感が大事ということ。
義理のお父さんは、会話の中でよく「そう」とだけ相槌を打ってくれる。
実はこれが妙に心地よい。
したり顔で講釈を立てるわけでもなく、良し悪しを判断するでもない。
ただ受け入れてくれる。
そこには過保護もやり過ぎも全くない。
そうだ、きっと子育てもこれぐらいの距離感がいい。
子供だって、心底褒められてるのか、その言葉をただ投げかけられてるのかぐらいは、もうお見通しになってくる。
であれば不必要な言葉はいらない。
興味を持って話しかけ、後は子供の気が済む範囲で、ただその話を受容する。
これだね。
でも、娘がそのうち、父親の声も届かないほどばっちり距離をとってくれたらどうしよう。。
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