子供がぼっちになるのを気にする前に親が気にしておくべきこと
親が子供の成長を望む中で、恐れることランキングがあったら、間違いなく上位に入るだろう。
子供が「ぼっち」になること。
今日話題になってたブログ「子供がぼっちになったときの親の辛さ」
、これは親としては身につまされる。
親としては子供達にイキイキと育って欲しい。
友達をたくさん作って楽しい経験をして、スポーツ始めいろんなことを経験して頑張ることで成功体験を積ませたい。
そうやって自信をつけさせながら、好奇心旺盛でいろんなことに探究心を持ち、頭を使って考える喜びを見出せる。
そうしたワクワクした気持ちを維持しながら前向きに成長していく好循環に乗ってほしい。
そのために一生懸命親は努力する。
でもそううまくいかないことも百も分かってる。
だから常に心配と隣り合わせ。
仲の良い友だちをたくさん作って欲しいけど、内向的でも心配、活発すぎても浮かないかと心配。
いろんな経験させたいけど、失敗しないか心配。かえってやらされ感で子供が疲れないか心配。
心配、心配、、全部心配。
去年の夏、うちの家族も上の子たち二人をそれぞれ一週間強のキャンプに送り込んだ。
きっと良い経験になると思って思い切ったけど、キャンプ中は本当に心配で心が落ち着かなかった。
ましてや最近はご丁寧に毎日の様子をブログとかで載せてくれたりして、そこに垣間見える断片的な情報や、写真上の子供達の表情に一喜一憂してた。
そう、子育てって息の長〜い、親としてはライフワークぐらい長い取り組みなのに、いちいち一喜一憂してしまうのよ。
結局親たちは肝心なことをいつも忘れてしまう。
それは親にできることなんてほとんどない、ということ。
子供は僕たち親とは別の人格。
もちろん、自分の性格や経験に照らして、できれば子供には避けて欲しいことは避けて通って欲しいと願う。
でも、仮に望ましくないことに直面したとしても最終的にそれをどう捉えるかは、子供次第。
そして、最初は小さくて手を差し伸べたり守ったりしやすいけど、数年もすれば子供達は子供達の社会に入り、そして大人になれば、完全に僕ら親の手の届かないところにいく。
それからの彼らの人生の方がはるかに長い。
どうせいずれ親が関与できなくなってしまう。
というか、親が関与することで、子供達を親が願うとおりの子供にしようと思うことがそもそも間違ってる。
僕らが子供の時、親に、「頼むから俺たちを理想的な環境において理想的な人間にしてくれ」と思ったか?
むしろ、「うるさい、親はわかってない、自分のことは自分でする」と思ってなかったか。
僕らの息子も、転勤のせいで、楽しく通った幼稚園を年長さんの秋に移らないといけなくなり、その後は友達らしい友達もできず、それはもう随分寂しい卒園をさせてしまった。
その間僕と妻は、息子が不憫で不憫でならなかった。
でも小学校に上がり、今は普通に友達社会の中で自分で溶け込んでいる。
もちろん、彼自身がどのように感じているのかはわからないけど、ただ少なくとも、彼自身なんらかのコンプレックスはあったとしても笑顔を見せながら過ごしてる。
コンプレックスのない子なんていないだろうし。
子供達にとっても局面局面で少しばかり心の傷になってることもあるだろう。
でもそれを完全に癒せるのは親じゃない。
子供達自身だ。
だから親にできること、それは結果にこだわらず、場を与えることぐらいじゃないかな。
これでもかというくらい、かわいい子には旅をさせればいい。
あー、今回は失敗したなあ、とか、苦いけどいい経験になったかな、と前向きなゲーム感覚で。
最低限、僕ら親が子供達を愛して大事に思って、そしてそれを子供達が感じられる状態にしていたら、きっと大抵のことはうまく行くはず。
そう信じたい。
正直そうは言っても毎日心の中では大嵐だけど、それに耐えられるかも親の器量を問うゲームだ。
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